辞書が持つ2つの「循環参照性」
循環参照
Aという語の定義にAという語が用いられている──。
Pの根拠がQであり、Qの根拠がPである──。
このような、「根っこの無い論理構造」を「循環参照」といいます。
登場する文脈に応じて、「循環定義」「循環論法」などとも呼ばれます。
皆さんが小学校からお使いであろう国語辞典。
未知の言葉に出会うたび、「意識高い系小学生ワロス」との誹りも物ともせず、
ボロボロになるまで引きまくったことでしょう。いや、むしろ周囲から引かれまくったことでしょう。
しかし皆さんの“魂の教祖”こと国語辞典には構造的な問題があるのです。
2つの循環参照性
構造的な問題、それは2つの循環参照性です。
①語義の定義が循環的である。
②「正しい日本語」の根拠。通俗的用法と辞書的用法が相互に依存している。
1つずつ説明していきます。
語義の定義の循環
まず1つ目。
今のところ、すべての国語辞典では、語義の定義において循環参照が起こっています。
今回はコトバンクで提供されている大辞林第三版から例をお借りして説明します。
例えば……
【政治】
① 統治者・為政者が民に施す施策。まつりごと。 ② 国家およびその権力作用にかかわる人間の諸活動。広義には,諸権力・諸集団の間に生じる利害の対立などを調整することにもいう。
【為政者】
政治を行う人。為政家。
「こらこらこら~~!!」「待て待て~~い!!」「てやんでいっ!こちとら江戸っこでい!!」とお思いでしょう。お気持ちはよく分かります。
政治=為政者が民に施す施策
為政者=政治を行う人
∴
政治=「政治を行う人」が民に施す施策
→為政者=「『政治を行う人』が民に施す施策」を行う人
→→……
こういうことですよね。
まあ「施す施策」という表現も気になりますが。
政治という言葉の意味が分からず調べてみると為政者という言葉が。これも知らない語…
そんな人にとって辞書は極めて無力です。
母語なら予備知識で多少は分かるかもしれませんが、外国語を学習する際には大きな壁になります。英英辞典や仏仏辞典を使うと実感できると思います。
実際、すべての語を網羅的に定義しようとすれば、必ず循環参照は発生します。
論理学においては「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」として知られている現象です。
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「正しい日本語」論争
2つ目の問題はよりスケールが大きいもの。
正しい日本語を規定するのは、辞書なのか、それとも慣用なのか。
辞書の定義は実際に言葉が使われている例文を採取してまとめたものです。
しかし実際に言葉を使う場面では、言葉の正しさは辞書に規定されることがよくあります。
(そもそも辞書はそのためにあるんでしたね。忘れていました。)
まさに辞書の定義と実際の慣用とは相互に参照しあう関係にあるわけです。
辞書の定義と慣用がズレた場合、修正されるべきはどちらなのでしょうか……?
辞書の心もとなさ
このように、辞書というものはほとんど基盤を持たない建築物のようなものなのです。
構造上の欠陥であり、解消できればそれがいちばん良いのですが、
ひとまずは言葉の拠り所の無さ、不安定さというものを理解しておくことが望ましいでしょう。
言葉の使い方に起因する行き違いの根底にこのような不安定さがあることを分かっていれば、
自分と相手との「かみ合わなさ」を俯瞰し、整理することが可能になるかと思います。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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