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コトバ、ハガユシ。

何の取り柄もない残念大学生、今日もコトバがもどかしい。

『語弊学』、ことばの量的限界と質的限界。

本記事ではことばの限界を整理して共有することで無用な争いを避けようという僕の立場、

語弊学」を僭越ながら紹介させていただきたいと思います。長文になりますがお読みいただけると嬉しいです。

 

通じ合えなさ、言い尽くせなさ

こんな経験はありませんか?

時間をかけて伝えたはずのことが先方に伝わっていなくて、イライラ……

文章の内容が何通りにも解釈できる、何が言いたいか分からずイライラ……

会議で長々と発言を続ける人にイライラ……

自分を責めているのか、一般論の範疇で単に助言をくれているのか分からずイライラ……

 

これは、ことばそのものが持つ根本的・構造的な限界によるものであることがほとんどです。

ここではその限界について僕が考えることをお話ししてみます。

明確な区別が出来るわけではないですが、説明の便宜のために以下では「量的限界」と「質的限界」に大別して類型を提示したいと思います。

 

量的限界

小学校の先生がクラスの児童にこんなことを言うことがあります。

「いま配ったプリントをお家に帰って『お母さん』に渡してくださいね」

当然、父子家庭の子もいれば、主にお婆さんが面倒を見ている家庭もあるでしょうし、親族と暮らさず福祉施設やお寺に住んでいる子がいるかもしれません。

「保護者=母親」と決まりきった認識をしている先生は今どきいないでしょうが、それでも上述のセリフはしばしば聞かれると思います。

『お母さん』の代わりに『保護者』『お母さん、お父さん、おじいちゃん、おばあちゃん、施設の人、あるいはその他、自分の面倒を主に見てくれている人』などと言っても、小学一年生には伝わらないでしょう。

情報の厳密さやポリティカルコレクトネスを捨ててでも、大意が伝わることを重視して妥協しているのです。もどかしい。

(実際には『お母さん』ではなく『お家の人』という表現が選択されることもありますが、これも情報の正確性や伝わりやすさの点から言えば、折衷のバリエーションと言えるでしょう。)

 

このもどかしさを説明するのが、ことばの「量的限界」です。

・話すことを許された時間、スピード

・文章を書くことが許されたスペース

・使用が許された語彙の幅

こういったものがことばの量的な限界として挙げられます。

共通する性質としては、「許された範囲に収まるように、発信者が妥協してことばを削らなければならない」ということです。

スピード、分量、語彙。こちらを立てればこちらが立たずという葛藤。

なるべく正確でなるべく理解しやすい情報伝達を目指しても、目指すからこそ、何かを諦めなければいけません。

 

会議や電話が長引けば当然フラストレーションが溜まります。人の時間は有限なのです。

また、哲学書を小学生でも分かる語彙で書こうと思うと厳密さが損なわれますし、分量も膨大になります。逆に一般市民向けの講演で高度な専門用語を用いても理解は困難になり、かえって情報伝達の効率は下がるでしょう。

そもそも人間が集中して話を聞くことができる時間は限られていますし、聞き取れる・読み取れるスピードというのも大きな個人差こそあれ限度があります。

心理的、物理的あるいは生理的な量的限界に従わなければ、情報の伝達はままなりません。

 

冗長と晦渋との間を調停しなければいけない。「ことばのコストパフォーマンス」の要請は切実なものなのです。専門家同士のやり取りに専門用語が頻出するのも、簡潔な警句が人口に膾炙するのも、このためなのです。

どうすれば最も効率よく伝えることができるか。話し手・書き手は、受け手の処理能力に応じた取捨選択を迫られるのです。

 

質的限界

ことばの限界というのは、コストパフォーマンスの問題だけではありません。

より根本的な次元で、意味内容を共有することそのものの難しさというのが常に付きまといます。

これがことばの「質的限界」です。

 

ある言語を外国語に置き換える「翻訳」という営みはいかにして可能なのでしょうか。

ある言語が有する概念を、その言語の外側にいる人は理解することができるのでしょうか。

「猫」と「cat」あるいは「chat」は同じ概念なのでしょうか。

同じなのか異なるのかを確認することはできるのでしょうか。

 

これは複数の言語間においてのみ起こる問題ではありません。

同じ日本語話者同士でも、各人が各人なりの意味内容を前提してことばを使っています。

いわば「わたし語」と「あなた語」、人の数だけ言語があるようなものなのです。

 

ことばの定義を共有しようとことばを使うと、またそのことばの意味を定義しなければなりません。

前記事ではことばの定義の不可能性の一例として「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」に言及しました。

辞書が持つ2つの「循環参照性」 - コトバ、ハガユシ。

ことばの意味内容を共有しようとしても、そこには構造的な困難が横たわっているのです。

 

「わたし語」と「あなた語」との間の、乗り越えられない壁。

意味内容が共有されていない、というより共有されているかすら分からない、そんなことばを用いながら、僕たちは何となく通じ合っているつもりになっているのです。

 

ことばの定義だけでなく、解釈のルールも個人によって様々です。

なるべく字義通りに解釈しようとする人もいれば、メタメッセージを見出そうとする人もいます。

論理に忠実な解釈を常に行おうとする人もいれば、整合性よりも語感を手掛かりに意味を拾おうとする人もいます。

それぞれの意味内容があり、それぞれの解釈の原理があるのです。

すれ違いが起こってしまうのも致し方ないと言えるでしょう。

 

限界を知って

これまで述べてきたような限界があるからといって、ことばに依存した生活を続けてきた僕たちが急にことばを捨て去ることはできません。

ことばの有用性というのは、無視できないほど大きいのです。

 

確かにことばには限界があります。

しかし、量的・質的な限界を理解しているだけでも、日常で起こるすれ違いの多くは避けられるのではないでしょうか。僕は実際の体験からそのように思うのです。

 

スピーチで長々と話す人にイライラすることがあると思います。

難解な専門用語を多用する人にイライラすることもあるかと思います。

しかし、折衝困難な複数の量的限界を知れば、その中で話し手がいかに葛藤しているのかを察することができて、寛容に耳を傾けることができるようになります。

 

「約束したじゃないか」「いやしていない」という水掛け論もしばしば見られます。

しかし、定義の共有の難しさを理解することで、そもそも曖昧な約束は避けようという態度をとることもできます。

 

「そんな意味で言ったんじゃない」と苛立つことも多々あるでしょう。

しかし、ことばの解釈の多様性を理解することで「そう取れる言い方だったが、言わんとしたのはそうではなく、~」という相手に寄り添った換言へと前向きに歩を進めることができます。

 

無用な争いの根本的な原因を考えることで、「すれ違い」から「歩み寄り」に舵を切ることができるようになるのではないでしょうか。

ことばの限界とそこから生じる人々の葛藤や齟齬を整理することで、ことばとの理想的な向き合い方を模索する。いわばことばの「交通整理」。

このような立場を「語弊学」と呼び、これから突き詰めていきたいと思います。

語弊学、よろしくお願いします。お見苦しい長文、お読みいただきありがとうございました。