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コトバ、ハガユシ。

何の取り柄もない残念大学生、今日もコトバがもどかしい。

「握りこぶし」は重言か?

言葉についての雑感

重言リダンダンシー

馬から落馬する」「頭痛が痛い」などという表現が、正しくない言葉遣いの例としてしばしば取り沙汰されます。

English language also has a variety of different examples of redundancy, too, such as "at nine a.m. in the morning," "Can you repeat it again?" and etc. みたいな感じですね。

このような「近接箇所に意味内容が重複する語を配した言明」を、「重言」と呼ぶことがあります。「近接箇所に配する」というのは、一文のうちに、特に直接の主述関係や修飾関係にあるひとまとまりの語群中に含むことを指しています。

 

今回は「一見すると重言のようにも思われるが、実際には重言だと咎められることなく用いられる表現」について、「握りこぶし」を具体例として取り上げながら考えたいと思います。

 

「握り」、「こぶし」

「握りこぶし」という言葉は、ごく普通に用いられます。もちろん、「拳」イコール「固く握った手」です。「握る」と「拳」は完全に意味が重複しているのにもかかわらず、この言い回しに違和感を持つ人は少ないでしょう。

Googleで【握りこぶし 重言】と検索しても、これを指摘している記事は見つかりません。

 

なぜでしょう???考えてみました。

 

いざ考えてみれば、「馬から落馬する」と「馬から落ちる」は同じことを言おうとしているのに対して、「拳」と「握りこぶし」ってそもそも意味が違いませんか?

 

「拳」というと、暴力性・攻撃性が示唆されるのに対し、

「握りこぶし」というと、そこからの暴力・攻撃を想像しにくい。

……というのが、僕が納得できる仮説です。

 

というのも、「拳→殴る」などという連想は成り立ちますが、

「握りこぶし→殴る」などという連想は成り立ちにくいからです。

 

「拳」は「殴る」「打つ」等の行為の手段として、動作の起点となることができます。

それに対し、「握りこぶし」はすでに「握る」という動作の終点なので、他の行為の手段として使う場面を想像するのが難しいのでしょう。

このような違いから、「握りこぶし」という語は「拳」と区別される独特の意味合いを持つ語としての地位を与えられているのだと僕は考えています。実際「握りこぶし」という表現は怒りや悔しさといった感情を噛み締めるような文脈で用いられることが多いのではないでしょうか。

 

また、「握り拳」ではなく「握りこぶし」と平仮名で表記していることによって暴力性が和らいでいるのではないか?と思われる方もいらっしゃるでしょう。

確かに「にぎりこぶし」<「握りこぶし」<「握り拳」の順で暴力的な趣きは増すと思いますが、僕にとって最も据わりが良い表記が「握りこぶし」でした。今回は暫定的にこの表記を採用しているに過ぎず、「握り拳」としても持論に変化はありません。

ただ、「握り拳」よりも「握りこぶし」の方が据わりが良いと感じるのも、やはり暗示される非攻撃的な語感を反映してのことでしょう。非攻撃的な「ニギリコブシ」を表記するにあたって攻撃性を示唆する「拳」という字を用いるのには抵抗があるということです。

 

日本語において重言が忌避・許容されるのはどのような場合か

僕の仮説が正しければ、「握りこぶし」は「拳」とは別のニュアンスを持っています。それに応じて使用される場面も異なります。

重言を指摘するにはその代替となる非重複的な表現を脳内で想定する必要がありますが、このようにニュアンスが違うならば余分に見えた部分もそのニュアンスを表すのに不可欠だったのだと分かるはずです。

 

重言が忌避されるのはなぜでしょうか。その理由は「長くなる割に新たな意味合いが付加されることがない」から、つまりコスパが悪い」からに他ならないでしょう。

逆に、少し重複的な言葉を足すことでかえって効率的に別のニュアンスを表現することができるならばそれはコスパの良い」表現として、正当な言葉遣いという地位を得ることができるのです。

……というのが結論でした。

 

(ちなみに「ずつうがいたい」と「あたまがいたい」は音数と意味が同じですが、「ずつうがいたい」には違和感があります。これは、音声よりも文字に対する指向性の方が強い日本語において、聞き取りの際に「無意識の漢字変換」のような現象が脳内で起こっていると考えれば経験的に納得できると思います。)

 

最近疑問に思ったことをスッキリ説明できる仮説に思い至ったのでこんな文章を書いてみました。感覚重視で話したので共感できない方 は読んでいて退屈かもしれません。独善的な文章なのは自覚していますが、僕と同じような感覚を持つ方にとっては腑に落ちる説明になっているのではないでしょうか。

「言葉のコストパフォーマンス」については、「言語表現の量的制約」という概念を持ち込んで場を改めて論じたいと思います。