コトバ、ハガユシ。

何の取り柄もない残念大学生、今日もコトバがもどかしい。

モラハラ考

「モラル・ハラスメント」

2015年に高橋ジョージ三船美佳夫妻(当時)の協議離婚騒動が取り沙汰されて以来、「モラル・ハラスメント」という語が頻繁に聞かれるようになりました。

 

夫婦やカップルだけでなく、親子間や上司・部下間などの人間関係においてもしばしばモラル・ハラスメントの存在が指摘されます。暴言や暗黙の脅迫などによって相手を精神的に追い詰める、そのような権威的・攻撃的な言動モラハラと呼ばれているのです。

 

この「モラル・ハラスメント」という言葉は、すでに広く一般に用いられてきた「セクシュアル・ハラスメント(=性的嫌がらせ)」や「アルコール・ハラスメント(=飲酒強制や昏倒者放置など酒の場での嫌がらせ)」といった用語に比べて明確な定義付けが困難です。意味内容が曖昧なバズワードとして言葉だけが一人歩きしているのが現状ではないでしょうか。

その原因として、「モラル(moral)」という語の両義性が指摘できると思います。

両義性というのは

①「moral/精神的」=「精神性に関する」

②「moral/道徳的」=「道徳的に正しい」

という2つの解釈が可能だということです。順に見ていきます。

 

「精神性に関するハラスメント」という側面

まず、「moral」という形容詞の「精神的な・精神性に関する」という意味に注目してモラル・ハラスメントを捉えてみようと思います。

このとき、モラル・ハラスメントはフィジカルなハラスメントに対置される概念として規定されます。いわゆる「心の暴力、言葉の暴力」のことです。

なお、アルコール・ハラスメントは英語では「alchohol-related harassment」と呼ばれます。

アルハラは「アルコールに関する嫌がらせ」、セクハラは「性別に関する嫌がらせ」、同様にモラハラは「精神性に関する嫌がらせ」なのです。

この限りでは、「メンタル・ハラスメント」「サイコロジカル・ハラスメント」などという呼び名も妥当するはずです。「モラル・ハラスメント」という命名にはもう一段上の必然性があるかのように思われるのです。

 

「道徳的に正しいハラスメント」という側面…?

続いて、「moral」という形容詞の「道徳的な・道徳的に正しい」という意味に着目したいと思います。「精神性に関する」のように単に問題の所属領域をいうのではなく、「正義/悪」という価値判断を含んだ意味合いです。

この意味において「モラル・ハラスメント」は一際悪質なものになります。

人間関係における精神的な追い詰めは往々にして、「俺が稼いだ金で建てた家なんだからいつでも追い出してやる」「あなたのために私はここまでやっているのだから言うことを聞きなさい」「友達の頼みなら5万ぐらいはした金だろ、頼むよ、貸してくれよ」など、「正論」を伴って為されるものです。論理的には反駁しがたい正論によって見かけ上の道徳性を振りかざし、相手を「悪者」にして逃げ場を奪うのです。

ヴァイオリニスト・高嶋ちさ子の教育論コラムが炎上したのはまだ記憶に新しいところですが、2人の息子のDSを破壊して泣かせた彼女の言い分はまさしくモラル・ハラスメントの論理です。

 

「自分で働いたお金で買ったゲーム機を自分で壊す気持ち、あなたに分かるの?あなたはゲームが一生できないことを嘆くより、ママからもう二度と信用されないということを心配しなさい!」

 

「(見かけ上)道徳的に正しいハラスメント」は、一見すれば倫理性が論理的裏付けによって担保されているように思われるのです。加害者は「正しいのは自分」、被害者も「正しいのはあなた」、そして周囲も「正しいのはあの人(加害者)」と錯覚してしまえば、関係は簡単に固定化・恒常化してしまいます。

 

親や恋人、教師や上司が、「相手への愛」を理由に攻撃を加えることがあります。「相手を愛しているがゆえ」という見せかけの献身や自己犠牲は、その裏腹にモラル・ハラスメントの危険を孕みます。フロムのいう「好意的サディズム」に他なりません。相手を自分より劣ったものと考える限り、その好意は相手への尊重を含まない迷惑千万な押し付けにしかならないのです。

 

最も質が悪いのは、加害者が無自覚である点です。時には真のモラハラ加害者があたかも何かしらの被害者であるかのように立ち現れてくることすらあります。「自分は被害者だ」、これほど相手に危害を加える上で好都合な大義名分はありません。そして真の被害者は、「自分こそが悪者だ」「自分は相手よりも劣る」といった自責の念のうちに、相手に反駁する気概さえも封じ込められてしまうのです。

 

潜在的加害者

このようにモラハラは無意識下で関係を蝕むことが多いといえます。自分がモラハラ加害者・被害者であると自覚することが、モラハラ脱出の唯一の糸口です。

あなたの周りにこんな人はいませんか?

「議論で相手を打ち負かし常に上位に立とうとする」人。「論破厨」。

「何かにつけて恩着せがましく、しかも『ありがとう』と言われるまで納得しない」人。

「責任を人に転嫁する」人。「自分は悪くない、お前が悪い」と言って憚らない人。

これらの条件に当てはまる人は、周囲に対して、とりわけ家族や恋人に対して、モラル・ハラスメントを働く可能性が潜在的に高いといえるでしょう。典型的な「質の悪いインテリ」ですね。

 

そして、こういう人も加害者になる危険性が高いといえます。

「コンプレックスが強い半面、自己顕示欲が強い」人。

「自分のことを愛しているか/大切に思っているかとしきりに訊く」人。

「猜疑心が強く、束縛傾向がある」人。

劣等感・欠損感の強い人は貪欲に自分を高めようとする一方、それでも満たされない承認欲求を何とか消化しようと、自分よりも劣る人間を手の届くところに置こうとします。

一向に満たされない「感謝されたさ」「謝罪されたさ」「尊重されたさ」「優先されたさ」「愛されたさ」「尊敬されたさ」。

このコンプレックスを直視することができなければ、無自覚のうちにその燻りは「感謝させたさ」「謝罪させたさ」「尊重させたさ」「優先させたさ」「愛されたさ」「尊敬させたさ」というサディズムに変換されてしまうのです。

 

アドラーと加藤

以上に述べたようなことは、「人は鬱ぎ込みたくて鬱ぎ込み、怒りたくて怒るのである」と説くアルフレッド=アドラーの心理学に通じるところがあるように思われます。もちろん僕の分析ではコンプレックスとそれに対する防衛機制というフロイト的な前提を置いているので純アドラー的な理論だとは言えませんが、それでもアドラーの警句は褪せることなく教訓を与えます。

社会学者の加藤諦三は「自分が幸せであって初めて相手を幸せにすることができる。『相手の幸せのために』という欺瞞は相手を隷属させるための手段に過ぎない」と言います。

 

なぜこの記事を書いたか

昨日、ある親しい方と激しい喧嘩をしました。僕は人目も憚らず叫んで暴れ狂い、僕が落ち着いたころには今度は相手の方がふっ切れたように怒りを露わにしたのです。なおその内実は、原因がほぼ100%僕にあるという全く分の無い争いでした。

その喧嘩を反省するうちに、僕はこれまでその人にしてきた仕打ちの愚かさと、自分の誤った信念に気がついたのです。他ならぬ僕自身、その人にずっとモラル・ハラスメントを働いていたのです。おそらく他の何人かにも同様の危害を加えていることでしょう。

「お前が言っていることは論理的には間違っている」「定義が曖昧で話にならない」「約束を破った奴の言うことなんか聞いてやる義理は無い」「理由はどうあれ嘘ついたんだろ?謝れよ」…こんな言動の連続でした。そもそも「お前」という呼び方をすること自体モラハラと呼べるでしょう。

そ して僕が抱いていた誤った信念、それは「論理的であれば必ず合道徳的であり、思いやりは完璧な論理を必要かつ十分な条件とする」というものでした。僕が執着しつづけていたこの大原則が破綻したのです。いやむしろ、破綻していたことに気付いたという方が適切でしょうか。「冷たい正論」の存在に、今更ながら気付かされたのです。

僕はその人との関係を今後も続けていきたい一心で、このようなラディカルで自己否定的な総括を行い、脱皮を図っているのです。

 

大切な人を、自分の道具にしないこと。

この教訓を杖として、新たな自分へと歩を進めようと思います。

長い長い自分語りになってしまいましたが、ここまでお付き合いくださった読者の皆様、ありがとうございました。