読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

コトバ、ハガユシ。

何の取り柄もない残念大学生、今日もコトバがもどかしい。

Everyday、過注釈

ドライ・コミュニケーションとウェット・コミュニケーション

今回のトピックは「ドライ・コミュニケーション」と「ウェット・コミュニケーション」という一対の概念です。

皆さんの周りにこんな人はいませんか?

「額面通り」に言葉を解釈し、不正確な発言にいちいち引っ掛かるタイプの人。

何気なく言った言葉を「言質」のように捉え、後々の関係の中で引き合いに出してくる人。

語弊を恐れるあまり「注釈」が多くなり過ぎて会話がなかなか進まない人。

もしかしたら読者の皆さん自身の中にもそのような自覚がある方がおられるのではないでしょうか。

そのようなスタイルのコミュニケーションを「ドライ・コミュニケーション(Dry Communication)」と呼びたいと思います。

 

〔定義・性質〕ドライ・コミュニケーション

=字義通りに言葉を解釈することを旨としたコミュニケーション。

同時に、その場の会話における発言を以後の関係にも持ち込む言質主義や、正確を期すあまり言葉数が増え発言が冗長になってしまう過注釈が観察されることが多い。

 

ちなみに僕は根っからのドライ・コミュニケーション型の人間(Dry Communicator)であり、周囲からは「論理厨」「定義厨」などと言われることも多いです。厳密性志向の言葉への眼差しがそのまま日常の言語運用に表れているというのが実感です。誠実であることとはすなわちドライ・コミュニケーターであることだとすら思っています。つまり、「言外の真意を恣意的に『察する』ことは、気を遣っているようで実際には現実の相手を直視せずに自分の中の相手像を押し付けることだ」と考えているのです。僕自身は、相手が言いたげなことを態度や気質から察するのはそれほど苦手ではないです。ただ、その度に相手を「決めつけ」てしまうことが強迫的に怖いのです。

 

ドライ・コミュニケーションの対立概念として「ウェット・コミュニケーション(Wet Communication)」を想定することができるでしょう。対比的な言い回しをするなら、「ドライ・コミュニケーション=文言優位の言語運用」、「ウェット・コミュニケーション=文脈優位の言語運用」と言うこともできます。

 

ウェット・コミュニケーション型の人(Wet Communicator)は、ドライ・コミュニケーション型の人との付き合いにおいて苛立ちを覚える場面が多いと思います。

たとえば、ドライ・コミュニケーション型の人が、語弊が無いよう心から相手を気遣って「君のことを悪く言うつもりは無いんだけど」と前置きしたとします。相手もドライ・コミュニケーターであれば「(なるほど、悪く言うつもりは無いんだな)」と素直に受け取ることができるでしょう。しかし、相手がウェット・コミュニケーターだと「(敢えてそんなこと言うってことは悪く言われるんだろうなあ、怖いなあ)」と受け取られてしまうことが多いようです。不用な警戒を解くために言った言葉なのに却って身構えさせてしまう、そんな捩れが起こってしまうのです。

「発せられた言葉自体に敬意を払ってそこに真意を見出そうとする人」と「敢えて言葉そのものを軽視し、より重大なものを言外に見出そうとする人」との会話が、何の工夫も無しにスムーズに行くはずもありません。

 

ここまで「ドライ/ウェット」という二分法に従って話を進めてきましたが、実際には誰もが両方の性質を兼ね備えているのではないかと思います。言葉のオモテとウラを同時に考慮しながら話しているはずです。しかし、個々人の言語観や美学によって、あるいは会議や恋愛など各場面によって、いずれかの立場を意識的に選択することもあるでしょう。そのような場合に、ドライ・コミュニケーターとウェット・コミュニケーターとの間に行き違いが生じてしまうのです。

 

「付き合う」って何?

生粋のドライ・コミュニケーターである僕と、ウェット・コミュニケーション型の人との恋愛は、往々にして失敗します。失敗してきました。

 

皆さんは「恋人」をどのように定義しているでしょうか。「相互に無限の自己開示を行える関係」だとか「排他的な肉体関係」、あるいは「『2人の未来』を志向する関係」等、様々な意見を聞いてきました。一般論として言える「付き合う(恋人関係になる)」の定義は無いに等しいのです。

 

僕は正体不明の「付き合う」という語で契約を結ぶことに強い違和感を抱きます。なので、「付き合う」前には必ず「『付き合う』とは何か?」という話を相手の方とするようにしています。合意形 成の前提として意味内容をはっきりさせておくのは当然だと思っています。これは過注釈傾向や言質主義の一つの形態であり、明らかなドライ・コミュニケーター的態度だと言えるでしょう。ウェット・コミュニケーション型の相手にとってはこれが大変鬱陶しいらしい。その議論を乗り越えて互いが納得する結論に至り交際がスタートしても、潜在的な摩擦は様々な場面で表面化します。ドライ・コミュニケーターによるウェット・コミュニケーションの「糾弾」、ウェット・コミュニケーターによるドライ・コミュニケーションの「軽視」。時にそれは「モラル・ハラスメント」と言っても差し支え無いような危機的状況になります。お互いが当然だと思っていることが正面からぶつかり合い、規範の押し付け合いに至ってしまうのです。

 

(参考記事:モラハラ考 - コトバ、ハガユシ。

 

衝突をいかにして回避するか

そのような「ドライ/ウェット」の衝突は回避できるのでしょうか。

根本的な美学の食い違いなので、こうすれば必ず回避できるという方法はありません。

しかし、「自らの立場を明確に意識し、俯瞰して相対化すること」によって摩擦はかなり軽減できるのではないかと考えます。

自分の言語観や美意識を絶対化している限り、自分と違うスタンスの相手は劣っているように見えてしまいます。逆に、それを明確に自覚して相対化することで、相手への理解を育てることができるはずです。

 

これはもっと一般的に言えることでしょう。誰もが異なる価値観を持っています。自分の価値観を捉え直し、できる限り言語化して人に伝えやすくすること。相手の価値観に共感できなくても理解に努め、敬意を払うこと。そうすれば拒否反応を起こさずに、より多くの人と深い関係を築いていけるものと思っています。

 

久々の更新。今回も結構な長文になってしまいました。読者の方によっては、過注釈まみれの冗長な文章として映るかもしれません。

最後までお読みいただいた読者の皆様、本当にありがとうございました。